定期開催している秀玄舎メンバーによる意見交換会。今回のテーマは「マネジメントの裾野を広げるためにはどうするべきか?」。プロジェクトを推進する上で必須の「マネジメント」が意外と明文化されていない事実をもとに、マネジメントの定義や認知の有無、マネジメントによって得られる成果や因果関係まで、話題は多岐に上った。
マネジメントには “思いやり”の気持ちが必要
本日のお題は「マネジメントの裾野を広げるにはどうしたらよいか?」です。マネジメントが機能しない現場や会社でも、秀玄舎が活躍するには、”最低限のマネジメント素地”という共通言語が必要だと思いますが、あまり明文化されていないように思います。 例えば、ガチガチの体育会系の会社だと、課題に対して「期限までに死ぬ気でやれ」って指示が出るだけで、何もできなくて時間が過ぎていくことがあったとします。これはマネジメントという共通言語の欠如によるものなのかなと思いますが、いかがでしょうか。
炎上して初めてマネージャーや経営者陣の危機感が芽生えて、その場しのぎの対応を繰り返しているケースがありますよね。そういう時って、彼らは、作業しているメンバーの大変さに、関心がものすごく薄くて、他人ごとのように思っている印象があります。マネージャー陣には、思いやりの気持ちが必要ではないでしょうか。
今の”思いやり”ってキーワード、実は秀玄舎に入社して割とすぐ、さんに言われたことがありました。結局思いやりがないとマネジメントって出来ないよねって。
以前、私が、人は使い捨てるみたいな感覚の会社にいた頃、マネジメントが機能していないと感じたことはありました。人が潰れてしまっても別に入れ替えればいいっていう感覚で、一緒に仕事をやっていても考えが合わなかったです。
顧客とマネジメントの定義を合わせること
マネジメント以前に、そもそもメンバーと意思疎通ができるかどうかや、お互いに意図を読み取る気があるのかも、重要な論点ですね。やり取りの一部しか理解できていないのに、すべて理解できたと早合点してしまう人とは、その先の会話が出来なくなるんですよね。だから、マネージャーは、どのレベルの人に通じる話をするのか探ることは大事だと思います。ついていけない人に合わせていくと、すごく低レベルなことしか会話できないし、その逆でも、解釈が人それぞれバラバラになってしまいます。
そもそも「マネジメントって結果ですか?プロセスですか?」みたいな言葉の定義の曖昧さが、大きな原因であると、僕は現場で感じています。マネジメントするから、これがこうなる、だから今こうなっているんだ、みたいな具体的なイメージが湧かないことには、マネジメントでこの問題を解決できるって発想にならないんじゃないかな。 マネジメントという言葉だって、正しい定義があるわけではないし、ほとんどの会社では、ラインの部下を指導することだと曖昧に捉えてますよね。我々と顧客の間で言葉が一致しないと「まずマネジメント整えましょう」ってならないですよね。
例えば、顧客から、「プロジェクトの予算がもうないからマネジメントを減らしましょう」と言われると、僕たちは矛盾を感じるけど、クライアントは、コスト削減だと思っているわけですよね。それぞれが見えているものに違いがあるから、そこを同じ目線で同じものが見えるようにするのは、なかなか難しい。
優秀な人が一人いたら、マネジメントがなくても、うまくいくと信じている人っていますよね。そういう人は、「お金ないし、マネジメントを入れなくてもうまくいく可能性がないわけじゃないから、そのままでやろう」みたいな発想になってしまいますね。
なぜマネジメントは軽視されるのか?
サッカーの監督がダメだったら、そのチームってダメだって言われますよね。でも開発のマネジメントについては、そこまで重視されていないように感じます。
映画みたいに成功したら監督はもっともてはやされるし、失敗したら仕事がこなくなるみたいな世界観だったら、開発のマネジメントも変わったでしょうね。
サッカーとか映画とかゲームのように結果で評価されるタイプと違って、マネジメントは、結果を出すためのプロセスとして正しくできているかどうかが、責務なんですよね。マネジメントが、責任とか管理みたいな言葉にすり替えられて、可視化されることはあまりないんですけどね。
映画はうまくいってもいかなくても、一旦そこで関係は終わりだし、監督がメンバーの成長にコミットすることはほとんどないですよね。企業のマネジメントと大きく違うところだと思います。
企業のマネジメントは、あくまでもラインのマネジメントで、失敗した時に原因を分解して、こう改善しなくてはという振り返りやPDCAはあまりせずに、大体誰かが悪いということにして終わらせてしまう感じがありますね。
<後編に続く>