今流行りの「心理的安全性」ってそんなにいいものですか?秀玄舎意見交換会レポート(中編)

  「心理的安全性は必要なのか?」をテーマとする意見交換会レポート中編。これまで秀玄舎内では「心理的安全性」と言う言葉があまり使われていませんでした。一方、顧客との会話で、このところ頻繁に上がってくるのはどのような背景があるのでしょうか。

各々の関わった事例をもとに話し合いました。

 

トップダウンになりがちな大企業で心理的安全性は推進可能?

プロジェクトを運営しながら、その組織のマネージャーや上司として関わるとき、そこおかしいよって指摘すると、心理的安全性を害することになるかもと躊躇うことがあります。なぜそういうことが起きるのかって、結局仕事できる、できないとか、建設的意見の積み上げができないとかに通じるのかな。

 

お客さんでも社内でも「私に言われちゃったから考えるのをやめよう、もう言われた通りにしよう」ってなると、色んな意味で意見がしにくくなる。その人に対してもだし、その人以外も、「こういうことを言うとツッコまれるならやめとこう」って、複雑な影響を与えるなと。心理的安全性って公言すべきことなのか、一定のレベルの建設的議論ができる土台があるところで定点観測するぐらいの話なのか悩みます。

 

さんなら分かるかもしれないけど、大きい会社で心理的安全性導入しましょうって方が結構リスクが大きそうですよね。

 

大きい会社かどうかより、組織がどれぐらい自由に動くことを許容しているかで違う気がします。ある程度全員がルールを守ることを前提に動いている巨大な組織もあるけど、アメーバ経営みたいなところは、そもそも上司に言われたことをやらない人がいることが前提で巨大組織が回っているんですよ。だから日本の大企業は上が言ったことに突っ込まない前提で動いている組織が多いだけなのかなという気がします。Googleもマネージャーは要らないっていう社風だから、こうなっているだけでAppleとかはちゃんと歯車として動けって感じの社風だと聞きますけど。

 

組織戦略に従うみたいなことですよね、こういう材料で動かす方式にするのか、フォーメーションして定型でやるのかっていうのは。

 

そういう自由な組織って、思想としてアジャイルに近いものはあるのかもしれない。私が大企業とか前にいた会社で自由なことをやろうとすると、社員には一定の基礎的なスキルなり、コンセンサスを求めるんだと感じたんですよね。

 

原則みたいなものに従って物事が動くって、その基礎原則と具体的な仕事の間の因果関係をちゃんと積み上げる人じゃないと、とんでもない間違った解釈をされることもあります。原則としては間違っていないけど、そもそも社会人の業務ルールとして間違っているみたいな。そのために業務ルールを百個も定義するわけにもいかないから、すごくベーシックな仕事に対する規律は要るんだろうなと。要はGoogleの言っていることは、やっぱりGoogleだからだよねっていう面は残る感じはします。

 

人それぞれ最低限ここまでみたいな線引きがあって、その上に絶対条件があるんでしょうね。

 

成熟度のレベルが5段階あるとしたら、レベル2、3以上のメンバーが揃っている時には機能するけど、1の人が入ると機能しないとか。しかもその人に指摘すると、マネージャーが心理的安全性の担保を害することをやっているように見えることもあって、成立条件が難しそうだと思います。

 

心理的安全性さえあれば、議論は活性化するのか?イノベーションは起こるのか?

このキーワードを言った瞬間にみんな喋ってくれるようになるなら、いつでも使いますけど、絶対そんなことないと思うんですよ。どちらかと言うと、この会議はこういうルールにしようねってことをベースに、心理的安全性と言われるものが担保されるようにアレンジはするだろうけど、心理的安全性があるからみんな喋るとか報告するとかはないかなって思う。逆に、このせいですごく閉じこもる人もいるだろうし、このキーワードを補佐が言い始めたらヤバいんじゃない?と思います。使い方というか、ルールだと僕は思いますね。

 

トップが心理的安全性を高めたいとアナウンスしたらもうダメだと思う。

 

裏返すと心理的安全性が担保されない組織になっているということですね。

 

ただ経営層と話をするとき、心理的安全性が今あまり高くないね、みたいな話はよく出てきますよ。経営者たちは、自分たちが裸の王様であることをものすごく恐れています、自分が配慮してないがゆえに、現場から意見が出てこないんじゃないかということを。そこに対して心理的安全性を高めるとか、色んな意見が出やすくするためにどうすればいいだろうという相談はよくある。そこに我々はどうアプローチするかは議論としてあってもいい。

 

過去の成功事例の再生産ではなく、現場から色んなイノベーションが起きる組織を作らなければならない、そのためには自由闊達な議論ができる会社でなければいけない、そのためには心理的安全性が必要である。という三段論法は割と根強い。でもさんが最初にイントロしたように、心理的安全性があるから闊達な議論ができるのか、それとも闊達な議論している組織をたまたま分析したら、うまくいっているのかは割と怪しいので、掘り下げたらいいと思う。心理的安定性のある組織が100あって、そのうち98がイノベーティブだったらすごいけど、心理的安定性のある組織が100あってイノベーティブなのは10とか、逆に心理的安全性の無い組織が100のうち、実はイノベーティブが30とかはありえる。イノベーティブであることが心理的安全性によるのかは相当怪しい。

 

心理的安全性という言葉を使わなくても、違う意見が共存できる場は形成できる

横文字って学んだところや時期によって意味が違うので、すごく都合がいい名詞になるし、心理的安全性もそうだと僕は思いました。しかも漢字にすると非常にいい感じに見える。

 

ふわっとして心地いいですよね。

 

我々は「心理的安全性が高いよね」とか議論したことは1度もないですよね。とはいえ、やはり我々にはある種の議論に対する耐性というか、十何年も培ってきたことだろうという多少の自負はあります。

 

昔、秀玄舎にSさんっていう怖い人がいて、定例会でみな詰められて帰っていく時代があったんですよ。でも否定的なものも含めて意見をばりばり出していたので、それが心理的安全性と呼ぶのか、今の方が安全なのかはちょっと分からないです。

 

僕自身は、我々にとってこういう議論する場が大事というゆるやかなコンセンサスはあると思っています。でもSさん時代と今と、どちらが進歩しているかというのは難しい質問ですね。Sさんは割と画一的な人間像を大事にしていて、要はパーフェクトマンを標榜した人だったので、彼がいなくなることを考えた時に、会社がそのままだとしんどいだろうから、社員が、一人ひとり違っていいというコミュニケーションの場を作ろうと思った時期があります。

 

会社の基盤を作っていた頃はSさんみたいな人がいた方が強かったのかもしれないけど、その後の継続性とか、色んなものにアジャストする会社にしようとしたときには、今みたいにさんとか、さんとか、さんとか、エキセントリックな人たちがいられる場を作る方が大事だろうと思っているんです。

 

さんもそうだと思うけど、違う意見の人が共存できる場所で緩やかに合意が形成されるバランス感覚を、意図的に作っていた時期はある。心理的安全性だと思って作ってはいないですけどね。でも採用のスクリーニングで、議論が好きな人じゃないと入れませんとは言っていましたね。

 

目的があって、こういう組織がいいねってコンセンサスがある中では、心理的安全性について議論する場も意識することもない。

 

心理的危険性」って言葉を多用する、権力を振りかざしたい人たちがいるじゃないですか。秀玄舎はそういう人がいない会社なのかなって。そもそもそういう人たちは秀玄舎には合わないと思うし。Sさんは権力を振りかざすタイプの人ではなくて、論理性みたいなものを追求しまくって、それが納得できないと拒否する人だったかもしれないけど。

 

創成期のタイミングは一気に引っ張るというか、持ち上げていく力が要るんじゃないかな。みんなふわふわしている状態で、成長するぞとか言っても成長できないと思う。

 

心理的安全性が高いところは必ずしもルールが少ないかというわけでもなくて、モラルが高く、みんながルールを守っていると、そこに心理的安全性が生まれたりするものです。だから心理的安全性を高めるために、みんなを自由に発言させようというアプローチはやはり筋が悪い気がする。

 

となると、原因より結果に近そうだね。

 

中編はここまで。後編に続きます。