今流行りの「心理的安全性」ってそんなにいいものですか?秀玄舎意見交換会レポート(後編)

  「心理的安全性は必要なのか?」をテーマとする意見交換会レポート後編。プロジェクトを潤滑に進める上で、顧客の心理的安全性をいかに担保するかの実践や、心理的安全性が指すものの範囲など、議論が発展しました。

 

心理は安全にも危険にも転ぶ。安全性だけをフィーチャーしても意味がない

今の議論を聞いていて思うのは、我々が知らないだけで、同調圧力の強い日本では、 心理的安全性を高めようって議論は深刻なのかもしれない。心理的安全性を持ってない組織における、ダイナミズムの欠如みたいなものが。

 

僕らとしてはそういうことが起こり得るって認識した上で、お客さんと接する必要があるだろうし。このPMはプロジェクトオーナーに委縮しているみたいな状態を理解して、じゃあどうすればいいんだってことですよね。

 

我々の仕事って、もうみんながモチベーションもモラルもなくして、炎上しているプロジェクトで、一家言持っているやつに言わせることが結構大事なオペレーションだったりします。

 

そういうコミュニケーションが大事なことはわかっているけど、別に心理的安全性とは言わないし、言わなくていいと思う。そういう状態が分かっていることが必要ってことですよね。

 

結局は心理戦なんですよね、心理戦を進める上では安全にすることもあれば、危険にすることもあるので、安全性だけをフィーチャーすることに意味ないがないという落ちなのかな。

 

毎回の落ちですね。

 

お客さんから心理的安全性のコンサルしてくれって言われたらどうしますか?

 

アジャイルとか、他と同じですね。そもそもの目的と効果などを話したあとに、うまいことやりましょうって言うんでしょう。例えば、上が隠していると下は基本的にコミットしません、情報公開が大事ですみたいな話があるんですよね、とか。そういう方法論の引き出しはいくつかあってもいい。

 

なんで心理的安全性が必要だと思ったのか、聞いていくと色々出てきそうですね。

 

おそらく問題は心理的安全性だけで解決しませんね。

 

病名でいうと風邪みたいな。症状を聞いていかないと何かわからない。

 

コミュニケーションだけでなく、個人に許容される行動が心理的安全性を高めることもある

我々がコンサルとして入ると、お客さんもだし、我々をアサインしてない部門の人たちもすごく警戒しますよね。その時、この人の心理的安全性をどうにか確保して喋らそうみたいなことを考えるんです。その時の自分の引き出しはもう少し増えないかなって常々思っているんですが、皆さんどうしていますか?

 

一般的なことしか言っていないな。人それぞれモチベーションが違うので、そこに沿うってことでしかないと思っています。安全ですよって見せようとすることが却って警戒を呼ぶこともあるかなと。

 

あとは笑わせるぐらいですか。

 

それはさんの技ですね。

 

ベタですけど、やっぱり相手に興味持っている感を持って、聞きたいこと、プロジェクト以外のことを聞くことはあります。

 

高等テクニックですね。

 

組織の意思決定とかイノベーション、変化を起こすことが目的だとすると、今の心理的安全性の議論で、違う観点があると思ったのは、コミュニケーションだけじゃなくて、許容されている行動も、組織における心理的安全性の余地なのかな。と言うのも、不思議だと思っていたのが、アメリカでは業務外のことを何時間やっていいですよみたいなルールがあるんですよ。日本でも私のいた組織では、5時間働いたら3時間別のことやっていいですよとか、上司に黙って頼まれていない仕事をやる。コミュニケーションしなくても、勝手にやっているやつが偉いみたいな文化があったんですよね。だから組織によっては、もし本当にイノベーションを起こすことが目的かつ、心理的安全性を高めたいとしたら、もう個人個人で勝手なことをやればいいじゃんみたいな感じ。

 

Googleの定義と全く違うんだけど、それも、ある意味心理的安全性だなと。たとえば部下が知らないことやっている時に上司が絶対突っ込まない暗黙のルールもあったんですよ。会社の設立趣意書に自由闊達なる愉快なる理想工場を作るって書いているから、もう自分のやりたいことは上司の目を盗んでやれという風土です。

 

心理的安全性はやはり原因ではなく結果?重要なのは事例や議論の積み重ね

そんな原則を掲げている会社は山ほどあるんだけど、結局、事例の積み重ねで許容されると思うんです。原則をどう解釈するってケースバイケースで、その解釈が積み重なって文化になっていくと思うんですね。ミッション、バリューって今流行っているけど、やり続けるだけでは意味がなくて、やったものをどう解釈して現場で血を通わすかみたいなこと。単なる想像でしかないけど、さんがいたところは、上司のこと無視した社員が会社の創成期にいて、創業者がそれを許した。そういうことの積み重ねなんでしょうね。

 

心理的安全性のコミュニケーションもですけど、多分マネージャーがデメリットと向き合っているんでしょうね。サボっているやつがクビにならないとか怒られないみたいなことで、一部の人はモチベーション落とすと思うんですよ。それを許容することも、脈々とある解釈の中で実現したんだと思うし、それを許容しなかった人がトップで構成された組織もあったと思うので、割と目的次第。どんな行動を許すかみたいな話とか、行動に対してどういう制限やルールを作るかみたいなのも、この安全性の中にはあるなあって話でした。

 

安全にしようと決めた人がいるってことですね。

 

コミュニケーションも含めて、そうなんじゃないかな。秀玄舎も議論をどう自分たちが決めていくのかみたいなベースはあってこそ、言語化しなくていい、建設的議論の積み上げがあったんじゃないかなと。だとすると、やっぱり原因じゃなくて結果の感じがしますよね。

 

秀玄舎らしい心理的安全性についても、パッと外から会議を眺めただけの人では、吊るし上げられているなって感じるかもしれないけど、否定的意見が言いやすいみたいな意味で、中の人が我々にとっては当然だよねと思っていれば安全な状態と言える。外から入ってきて、安全かどうかアセスメントするのはすごく難しいと思いました。否定的フィードバックができ合う関係っていうのは、その人たちがオッケーと思っていたらいい状態ってことですよね。

 

だから、安全だと言われている組織が他の人が入ったときに、その人にとって安全かどうか。

 

私も秀玄舎に対してはそう思いましたよ、いい悪いではなくて。

 

いつもこの会議は結論を出さない、結論が出ないことと沈黙を許容しています。ふわっと終わるけど、いつも、途中途中で気付くというか、心理的安全性というキーワードに対して分かっていなかったところがちょっとクリアになれば良いとしています。それでは今日はおしまいです。ありがとうございました。