“戦争“と”ビジネス”をキーワードに意見交換をしている今回のValue総会議。前編では戦争と向き合う論点のレイヤーについて、異質な意見を交わすことの難しさ について意見交換されました。中編では前編から発展し”異”なる相手との接し方や議論の仕方、受け入れ方が語られていた。
大企業では結構、ロビー活動とか政治的じゃなくても契約とか商流的にいいと思った活動することが公に認められてるという話について。
大企業と言われるクライアントで、社内向けslackに参加していてます。そのslackに、何百人も参加しているチャネルがあって、全員に公開されている中に自分のスレッドもあって、そこで自由に自分の意見とか書いていいことになっているんですね。そういうのって“政治的”まで行かなくても、直接コミュニケーションを取る前に、その人が主義主張をするのかを予め確認しろという会社側の意図なのかなと感じたんです。
これからコンサルタントだったり、クライアントワークをやる人間として「人」が持ってる主観的な意見とかをどう留めておくのかを考えておくということですね。
今まで個人の情報を見に行くことって、どちらかということネガティブにとらえられたところもあったと感じていたんです。ツイッターのアカウントなどから趣味嗜好を裏調査しているみたいなのって ちょっと印象悪いというか。
でもむしろ、積極的に拾いに行って、この部長さんってどういうスタンスなんだろうっていうのを知ることも必要だなあって思い直しています。
相手の主義主張を知って、「この人の主張はこうだから」ってコミュニケーションを取らないのは むしろ間違いで、知ったうえで実際に直接話して確認してFit&Gapを探していく、議論をしていくことが大事かなと感じています。
ちょっと話は反れますが、前編の中で交わされた内容を聞いていて思ったのが、
そういう何百人に見られるようなすごく公開型の場所におかれた時に、じゃあ自分とこの社員に対しどれぐらい自分の主義主張を言える裁量権を預けるか、何を教養として身に付けさせるのかと考えていくと、、、とても高度で一言で「これはやっていい、これはやってはダメ」みたいな“べからず集”が作れなかったんです。すごい難しいなって。
さんの問いに答えるとすると、、、あんまり正しい情報じゃないですけど、どっかの中小企業の社長がアンチワクチンで、社員がワクチン接種を受けようと思ったらクビになったという会社があったんですね。
つまり、会社として、こういう問題とどう向き合うかっていうことについては、みんなの中でコンセンサスがあった方がいいんでしょうかね。
我々の会社はみんながすごく大人であることを前提にしている会社だと思っているので、われわれの隠れた文脈には自己決定だったり、多様性が文脈として存在していると、僕は信じています。だから会社としてワクチン接種を受ける受けないは問わない。コロナに対して向き合うスタンスは、ゆるくしか共有してない。
だけど、ちゃんと場を見て空気を見て、お客さんも迷惑にもならないし、会社の他のメンバーにも何かを強要したりしないけど、「ちゃんと自分のスタンスは持っておこうね」ぐらいのことが共有できている会社だと。なんかそこは3つの層で言うと3番目の層かもしれないけどコンセンサスが取れているといいな と。
それ逆に言うとそれがあればこそ、対社内でも社外でも、もっとポジションやカラーを出した議論ができるということですか?
そこまで楽観的じゃないけど、言葉じゃなく姿勢とか感覚的にコンセンサスがとれていると、すごくしなやかだと思ってるんですよね。
で、そこからさらに先があって、たとえば僕がお客さんに対して何かリベラルなことを発言した時に、お客さんと意見の相違があったとした場合。先に話したお客さんとかね。その僕のスタンスや発言が、会社の他のメンバー達に迷惑かからないといいよなと本当は考えるべきなんだろうね。その時は全く考えなかったですけどね(笑)。
でも迷惑になったりも・・・するんでしょうね。
明確に仕事が減るかもしれないですね。
でも、まあ、そういうリスクを考えてあまり主義主張を出さないのは、普通にあることでしょうね。さっき、どこまでを出すべきかというのをさんが言った命題で言うと、カラーを今後は出していくべきじゃないか?みたいな議論って、どういう背景に立脚してるんですかね?
これはね、プロジェクトでもそうですけど、心理的安全性じゃないけど、これから先いろんな問題と向き合う時に、正解がなくてみんながみんな話し合ってゴールを見つけなきゃいけない世の中になったときに、自分や他人のスタンスを前向きに受け取れるかどうかは、チームとしての強さにものすごく関係すると思います。
僕、別にさんとベタベタしてないですけど、僕とさんの関係がすごく健全だと思うのは、お互いスタンスが違うことをよく知っていること。それでちゃんと自分の意見も言う。相手の意見は鼻で笑いながら聞いてますけどね(笑)
でも、そうであるがゆえに、ちゃんと僕が素っ頓狂なこと言っても、この人はとりあえず聞いてくれるだろうなと思ってるし、相手も多分僕に受け入れられないだろうことも言ってくるんですよね。なんかこれはチームとして僕はすごく強いと思ってるんです。
それは別に政治的なことだけじゃないです。いわゆる最近流行りの「心理的安全性」です。
違う意見とか、もしかしたらこれはみんなに受け入れられないかもしれないという意見をその場に出せる組織は強いです。絶対。アイディアの広がりからしても。
政治的なこと言わないとその世界が手に入らないかって言われるとそうでもない気がするけど、少なくともそういう世の中とかチームになっていかないとAgilityが身につけらんないよなと思ってます。
それ今、割と自社内の話に近くて結構納得感ありましたね。
社内で意見が出やすいということが新しいものを生み出す力になるとか、そのベースを作るっていうのは、すごく理解できる。
そのうえで二つあって、一つ目は対お客さんでも同じようなことが大事になりますか?
心理的安全性というのは、僕はものすごく意識して、お客さんの前で振る舞ったりします。
実際のプロジェクトでもズケズケと物を言うときがあります。
そんな時僕の中では8割ぐらい演技が入ってて、丸くしたり尖がらせたりはあるけど、実際のところを言えるチームを作んないとダメだというメッセージを行間に入れ込んだりするわけですね。
だから政治的かどうかは全然関係ないですけど、やっぱり対お客さんであれば、なおさら心理的安全性を自分たちが体現して行くっていうことは、我々の価値としてはすごく大事だと僕は勝手に思ってます。
今の話は、はっきり違う意見もちゃんと言える雰囲気を作っていきましょうということですかね。
そうだね。雰囲気を作っていく。
それは間違いないと思います。ラポール形成や心理的安全性が保たれる人間関係を作ったら組織としては強くなると思います
さんの問いで、対お客さんとでも様々な主義主張をテーブルに上げてラポール形成を築いていけるのかというところですが、
現場の世間話で「今ファクトとして政治的な混乱が起こっているよね」っていう話をするんですが、結構保守派の僕派と相容れない人と話を一緒にするんです。でもそれ喧嘩にならないんですよね。不思議ですよね。なんでだろうって、思ったんです。今回の話聞いてて。
僕は最初に僕の立場を明らかにしてるんです。僕のポジションここですよ。その上でお話をしている。
だから、さんと話すときも、僕のポジションはコンサバティブですよって意思を明確に出して話をして、リベラルな話を聞いてると思うんです
それって実は大切で、なんでもそこに繋がって来て、自分のポジションを明らかにして人の意見を受容するっていうことで、ラポールが築かれるんですよ。それに関しては賛成ですし、対お客さんでもやればいいと思います。
まあなんかでもこの話聞いてるとやっぱり、相手の大人度とかはやっぱり相当探っていかないと怖いよね
それはそうですね。
違うスタンスの人を、感情的に扱ってくる人だとしんどいよね。だから日本ではリスキーだよね。
人間関係さえできていればやれるんじゃないかな。
人間関係が出来てる必要がある。だから、さっきのさんが言ったような五百人とか、千人のslackで自分のスタンスを表明できる自信はない。
それは立場があればいいのでは。例えば“組織のロビイスト”という立場の人間が政治的発言をしているんだったら違和感ないじゃん。
まあ、そうゆうことが知識としてあればね。
今の話の中の切り分けとして、いろんな意見があって対立する意見があっても意見を出せて、それで議論ができるのといいよねとか、そういうのが話せる状態がいいよねは全然良いと思っているんですけど、
今日の話は政治的なっていうところなのでそこに話を戻すと、政治的なスタンスを語るとなると、それはまたちょっと違う気がするんですよね。
あえて言うと、日本では”違っちゃう”よね。政治的なスタンスだけほかの事と違ってスタンスを明確にすることにリスクが伴う。
それ。だから、それはなんでなんでしょうね。
今日の議論にそぐわないけど、個人的には教育現場の問題だと思ってる。
さっきも言ったスウェーデンみたいな話があって、日本の小中学校は政治的な話を先生がしてはならないというルールがあるんですよ。学校教育の場で政治的なことは、歴史的に禁止されているわけですね。
で、子供達はそういう環境で育つわけだから、そりゃ政治的なスタンスを表明する事に慣れないよね。なのにいきなり18歳になって選挙行けって言われるわけです。
そういう環境は、僕はどうにかしたほうがいいと思ってるけど。
そういう意味だと僕自身がその教育に毒されておりまして、政治的なスタンスを自分が持つっていうのが全然想像がつかないです。自分が何かの政党を支持するとかがあんまり。
だから”政治的な話”をするとなっても、どういう話をするのかあんまりまだ分かってないんだと思うんですけどね。
別に支持政党なんかなくていいんですよ。政治的な事を人と話すのっていうのは、別に政党かどうかじゃなくて、世の中がこうなっていくべきだよねとか、その時に政治がどういう役割を果たすべきだよねとかゆう話に、何か自分の意見を言うってことですね。
党派色を出すっていうよりかは、普通にどういう政策、どういう風な日本であるのがいいかっていうだけの話。
各論に落としちゃえば、割と政治色が弱くなるかもしれない。
例えば消費税を上げた方がいいとか下げたほうがいいとかっていう議論だったら政治色なく喋れるかもしれないね。でも政策論を話している時に、政治の話を除外して話すのって、なかなか難易度が高いけどね。
現実的な話になるとどうしても政策一緒にひもづくからじゃないですか?空論だと相手に響かないから、実際やるには今のこの政党が動かないととか、そういう話になっちゃうから。
政治的イデオロギーにタッチしたらだめですね。
個別論をなんかロジカルに語る分には大丈夫かもしれないけど、難易度高い。
政治とか経済の話をすると、人格まで振り分けようとしていることってあると思います。例えば、右翼支持を表明すると、右翼の人はこうだ、人格もこの傾向があるんだっていうイメージを持たれることってあるかなと。決めつけられちゃう傾向にあるので、私はあまり政治の話をしたくないなと思います。
本来、主義主張の及ばない範囲のところまでを勝手に決めつけられる気がするんですね。
学生時代、友達と政治の話して、ちょっと仲違いした経験があって。その時に性格のことガ―って言われたので、なんで議論でそこまで言われるのかなって苦い思い出がありましたね。
さんの言ってることが正解だと思ってますよ。教育が足りないからです。
レッテル張りをして、左側の人間はこう、右側の人間はこうっていうのは、それぞれの本質を知らないから、レッテル張りして放置してるんだよね。
その意味では悪循環だね。議論をしないから、そのことに対して理解が深まらないが故に、偏見がずっと残っちゃうだよね。で、なおさら議論ができなくなっちゃう。
教育って意味だと国公立と私立でたぶん違うんですよね。
私は中学は私立に進学していて、こういったことに関するディベートは普通にするべきだという学校だったので、逆に違和感がある。
いや、本当そう。だから、結局公立なんだと思う。問題は。中立を強要されてるけど中立じゃないし。
ルールというか法律がありますからね。小学校の先生はニュートラルでなければならないという法律があるから。
僕は私立の小中でしたけど、うちの小中はものすごくコンサバティブな学校だったんですよ。祝日には国旗を掲げて万歳三唱するような学校だったんで、割とそういうところに育っていますけどね。学校による特色はありますよね。
政治もそうですけども、同じ文脈で宗教も語られると思います。
それに対して触れていけない、話題にしちゃいけないっていうようなことありますからね。子供の時から言われてますしね。
相容れない考え方があるからでしょうね。なんか野球・政治・宗教って言われるのは。
考え方と人格がセットになっちゃうのはあるよね。だから考え方が違う人は人格も合わないみたいな。
さっきディベートの話ありましたけど、その異質な人と一緒にいるとか、議論をすることすら教育としては足りないね。この話すごくいい話だと思いますけど、今日って確か“戦争とビジネス”ってゆうテーマだったよね。趣旨に沿ってるかな(笑)
そうね。でもそれはそれで。
今の聞いてて思ったのは、相手との心理的安全性を作れる関係かどうかの話に関連するんですが、
クライアント先が規模や世界が小さくて、自分しかコンサルが居ない状況のときに、自分のスタンスが偏ってることを表明することはデメリットに働くことが多いのかなという印象があります。私が言うと盲目的に全部信じてくれる。答えをくれる人と思われている状況があるわけです。
そこで私が「こういうスタンスだから、こう言ってるんですよ」と言うと、そこで「じゃあ違う答えがあるんだ」と向こうが気付いてしまって、結果的に優位に進められないこともあるのかなと。
一方で大企業だと、コンサル自体うじゃうじゃ入ってて、コンサルごとにスタンスとってたりするし、社員みんなも主義主張があるんですよね。いろいろ多様性がある事前提で運営してるから、私は大企業みたいな場所のほうが自分のスタンスを言いやすいのはあったりするなと思いましたね。
頼られすぎているときに、それが政治話じゃなくてもスタンスを表明しづらいときがあるなあっていうのを思いました。
政治的な話じゃないよね
スタンス表明の話ですね。
例えば、システム開発で言えば、AgileとWaterfallかを選択するときに、「私Agile好きなんで」とか成果残したいとかゆう理由で決めようとしてる時あるんですよね。それとかITについて全く知識がないと、「なんでも決めて」となったり。
スタンスをシェアして一緒に考えようというフェーズに、お客さんとなるのはだいぶ難しい。
なんかスタンスを出すことのリスクとして、衝突のリスクとそのままそのカラーになっちゃうってリスク両方ありますね。
あるある。このスタンスじゃないこともできますよーって知っててほしいのよね。
お客さん先でスタンスの表明するときに、「別に丸投げしてもらってもいいけど、ぼくは丸投げされないスタンスです」って言ってる。お客さんが「自分たちでできるようになるべきだと僕は思ってるんですけど、やればできるけど、やらないんだぜ」みたいな。easyなスタンス表明なら言いやすいんですけどね。
AgileとWaterfallもそうだよね別にどっちでもいいんだよね。今はこっちがあってるよ、と言いたいよね。
AgileとWaterfallもなんか党派性みたいのが出てくるとうっとうしよね・・。
原理主義者みたいに出てくると、宗教めいてくるときもありますからね。
まあ開発スタイルならば、ある程度の前提を置いて双方の良い部分を両方取りできるスタンスを出せるけどね。やっぱ政治の話が同じように両方取り出来るスタンスはなかなかしづらいのが難しいポイントなのかな。
そうなんですよ。政策とか方法論とか、こういう風にすべきだという目的に即してゼロベースで話せるかというとちょっと違うんですよね。
政治だったり、何かしらの信条とかになってくると、元々の目的の議論がしづらくなったり、盲目的になったりするので、そこはなんか切り分けられるといいのかな。
さっきさんが政策の話をする時に、どうしても政治の話になるっているのは僕はまだあまり納得はしていなくて、政策だけでなんで話せないのだろう。
なるほどね。本当に政治絡めないで、政策の話だけができるのかは、やってみるといいと思う。別に突き放すんじゃなくて、一回出来るのかやってみても良いかも。僕もやったことないから。例えば、消費税の上げ下げだけを自分のイデオロギーを抜きに喋れるかどうかをテストしてみるですね。
イデオロギーってどこかしらフレームワークみたいなもんで、そこで思考が停止できるようになってるのね。
そうそう。
イデオロギー抜きに政策を純粋に議論するのね。でも何度も思うけど、ものすごく難易度が高くて難しいんじゃないかな。
例えば、消費税の上げ下げで考えてみても、ものすごくインプットとアウトプットがあるじゃない?要は消費税を上げることによるメリットデメリットを並べていった時に、「このいい事と悪い事とどっちが大事だね」と議論し始めた時に、イデオロギー抜きでそれを会話するのはすごく難しいよね。どんどん深掘りせざるを得なくて、そうすると議論要素が増えるから。
今聴いてて、皆さんの中で政治っていう言葉の捉えている意味が違うんだなって感じてきました。なんか政治っていう言葉の定義が違うんだと思います
イデオロギー含みの政治っていうのは“政治イデオロギー”なので、政治にはイデオロギー入らないんですよ。ある意見の集約して、それを決定していくっていう作用でしかならない。
なので、政治のイデオロギーを入れるんだったらアレですけども、イデオロギー抜きには政策論が語れると思うんですね。FACTだけでいけるから。
うん。言ってしまえば、政策の政治的なスタンス抜きだと難易度が高いっていうのは、そもそも難易度が高い部分だったり、あるいは答えが出ない部分を何らかの政治的なスタンスで代替しちゃうってことなのかな。
そうね。だから評論家みたい仕事があるんだと思う。議論してロジカルに結論が出せるんだったら、いらないから。
宗教と同じ構造なのかな。
まあね。政治は宗教だって言ってる哲学者もいるからね。
あとなんでしょうね、“政治”っていう言葉を聞いて、政治家、人、カネ、汚いって連想キーワードありますもんね。“政治を語っちゃいけない“と思われる一つの要因にはなっていると思いますよ。
そうですね。それもひとつの思考停止ツールですね。
そうね。やや話逸れますけど、僕は壊したい世の中の一つとしては、“ビジネス”もそうだね。パパ友ママ友みたいな場で金儲けの話ってタブーじゃん?基本的にその金稼いでる奴のはあんまり良く見られないですよ。だから僕、うちの嫁さんから会社経営してるって周りに言うなとか言われるから
お客さんには政治と金を絡めてお話しするとすごい響くんですけど。
それはね、さんのテクニックだったり、特殊なスタンスがすごく聞いてると思う。
すごくテクニカルに軽やかに話しますよね。僕は熱が入っちゃうからだめです。
やっぱイデオロギーを用いることで、楽してるからこそリスクが高いっていうことですよね。違うところに依拠している人との会話とかは。
うん、そこで僕はみんなが楽をしないでイデオロギー抜きに政策が議論するべきとは、実は思ってない。そうなった途端に議論の難易度が上がってロジカルに話ができる人しか参加できなくなっちゃう。
とはいえ、解決もできないじゃないですか。イデオロギーさえあれば、衝突が回避できるわけではないので。みんな同じならいいけど。
イデオロギーが違っても衝突しない世の中になればいいと僕は思ってるんです。
残念ながら、日本はイデオロギーが異なることで衝突してるけどね。
いや、そこはどうなのかな?
イデオロギーが衝突せずに議論ができるとしたら、そもそも戦争が起きないんじゃないかなと思いますよね。
そうですね。
でも戦争はまた違う理屈で何か起きている気もしますけど、
違うイデオロギーを認められないっていうことで言うと、おっしゃるとおり、突き詰めると難しいと思う。相手を同化させなきゃいけないってなったらしんどい。イデオロギーが違う人が同じ空間にいることで、お互いの利害が対立するようになると、しんどいですね。
だから、それを調整する我々の仕事ってあるじゃないですか。価値があるじゃないですか。
例えばさ、政治の分野ではイデオロギーが違うと政策が違うから、イデオロギーが我々の生活に影響が出てくるわけじゃないですか。例えば後期高齢者の医療費負担増加の例をとっても、お互いの利害が対立しちゃうわけじゃないですか。しかも日本に住んでいる以上はどっちかに決めなきゃいけないってなるとイデオロギーが違うと結論出ないよね。
だけど、そうは言ったって1億人いたら1億人が同じことを考えることはできやしない。お互いがイデオロギーが違うからと言って、離れて暮らしてしまって議論を戦わせないと、結局その集合知みたいなの出てこない。
お互いが違うことを知りながら、接合点とか落としどころを議論できる社会の方が強いとしたら、イデオロギーが違ったとしても議論ができる社会のほうがいい社会だと僕は思う。相手を屈服させるんじゃなくて。
イデオロギーが違う人同士が議論した結果、違うイデオロギーでも共通解を見つかる状況を作った方が良いっていう意味ですかね。
本来、民主主義はそれを前提にしているとすら思う。
イデオロギーが違う者同士が会話せずに、お互いを憎しみ合ってるから機能しない。
選挙制度、それを前提としますね。
中編はここまで。
相手のイデオロギーを受け入れて議論するというのは、本当に難しいですね。心理的安全性がないとできません。
今回は前編・中編・後編の三回に分けてお送りいたします。次回後編も是非お読みください。
・後編 は3/26公開予定